祈りの部屋

デボーション(静まり)の部屋   (2020. 1/2 更新)


2020. 1/9 1/2の「言葉を信じて生きて行く!」のつづき

「言葉を信じて生きていく!」の続き
1月2日に、ドクターの言葉を信じて元気いっぱい! の投稿をしましたが、その後、また色々と考えさせられています。
ドクターの言葉を信じれない人にも理由があると思いました。

1.実際に違和感を感じる。(痛みがあるなど、信じれない現実がある)

2.自らの過去の経験から疑いが生じる。

3.他の人のケースを聞き、不安になる。

実際私も、太い棒が入っているのですから、違和感がないと言えば嘘になります。変な角度をつけると脱臼した人の話も聞きます。骨がもろいと転んだ時、骨の 方が砕けてしまうと言う話も聞いています。そんな話を聞けば、不安になるのは当たり前です。私も手術前に何度か骨密度を図りましたが、いつも最も悪いE判 定でしたから、不安要素いっぱいの状況、そしてカルシウムのサプリを飲んだりもしていました。
ですから、そんな不安ももちろんドクターには相談しました。するとドクターは「そのような測定器で測ったものは、その一部分しか測れておらず、体全体の骨 がそうであるとは限りません。」と言われました。実際私の切り取られた骨は、丈夫な良い骨だったらしく、骨バンクに提供できるほどだったようです。

大切な事は誰の言葉を信じるかと言うこと、また、信仰とは、信じれる状況だから信じるのではなく、信じることが難しい状況である中で信頼していく、と言う こと。自分の体のことも、また将来のことも実は何もわかりません。しかし神様が約束してくださった御言葉(聖書)があるから、どんな状況になっても大丈夫 と言える平安が訪れるのだということを改めて教えられたのでした。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」(神様の言葉)
イザヤ書 55章9~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


雨や雪、試練は天から降ってくる。それは元には戻らない。しかしそのことが私を潤し必ず糧とする。神様の言葉は必ず成し遂げられ、成功される!
やっぱり口から出るのはハレルヤ! 今もただそれだけ!ですね。

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2020. 1/2 言葉を信じて生きて行く!


両股関節変形症のため26年間痛みに悩まされていた私は、昨年4月に手術をした。両足いっぺんに人工関節置換手術をして頂き、信じられない回復! 人生が変わるほどの日々と変えられ、60代にしてサイボーグ人間となった私は痛みが全然無くなり、走り回るようになった。
10月に術後半年の検診で、ドクターにこう言われた。
ドクター「キレイに直っているから、スポーツでも何でもしていいよ! ウォーキングとかもおすすめだよ」
私「先生! そんな事、私に言ったらホンマに調子に乗ってしまいますよ!」
ドクター「あなたの人工関節は30年以上もつから、気にせず使ったらいいよ!」(ヤッター!)

検診が終わって廊下に出ると、やはり同じ頃に手術を受けた方と会った。
私「調子はどうですか?」
Aさん「なんか右足のほう、あぐらをかくと違和感、感じるんだよね・・・」
私「えっ? そりゃ大変やん! で、先生はなんて言ってはったん?」
Aさん「気のせいやって・・」
私「??? そうなんー? じゃ大丈夫なんやね? ほな動いた方がいいのとちゃう? なんかスポーツしてる?」
Aさん「そんなん怖くて出来ないよ。転んだらどうしようと思ったら電車にも乗れない。」という・・。

同じドクターに手術をしてもらい「何をしても大丈夫!」とのおことばを頂いていても、その言葉を信じる事が出来なかったら、日々の生活はどんなに大変だろう。私はドクターの言葉を信じて、今じゃあ走って用事をし、ジムへも通っている! ギター抱えて電車でどこまで行っても痛くない最強の足で、ホントに飛び 回っている。寝ていても激痛が走った今までの日々を取り戻すかのように・・・。

人間の言葉でも、信じれば人生が変わるのに、まして神様のことばなら、なおの事。「あなたを愛している。恐れるな。大丈夫。決して見捨てない。あなたの罪はゆるされた! 永遠のいのちを与える」等、あげればきりがない神様の約束を、ただ「そのおことば! 信じます!! ありがとうございます!」と言って生きて行くのと「そう言うけどホンマかな? 天国なんかなかったらどうするん? 愛してるなんてウソちゃうか?」と思って生きて行くのと。ただ神様の約束を信じて生きて行けたら、どんなに日々が変わるだろう。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。イザヤ 41:10 」 と言われた神様のみことばを信じるから、恐れるものは何もない。
                                                            


2019. 7/2 「ひとりは取られ、ひとりは残される」


毎年、多くの災害が来る。世の終わりかと思う出来事が起こる。私たちは考える。どうすれば生き残れるか、災害が来た時はどうすれば良いかと。しかし聖書には、「ひとりは取られ(天に行き)」「ひとりは残される(かつて無かったような災害に苦しむ事になる)」と。弟子たちもイエスさまに尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」と・・・。

イエス様は答えられました。

・『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
・  戦争のことや、戦争のうわさを聞くが、気をつけてあわてるな。
      これらは必ず起こることです。
・  方々にききんと地震が起こります。
・  人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。
・  にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
・  不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

「人の子(イエスキリスト)が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

私たちは、永遠に目を向ける事が出来ますように。


                                                

2018. 10/11 「誰かのせいにして生きて来た?」

私は多分どちらかと言うと、「見た目は男っぽい」
でも「ハートは、すこぶる女っぽい」と、自分では思う・・・。

こうなっちゃったのは、小さい時からの、周りのせいにしている所があった。

中学二年になってもなかなか生理が来なかった私に、父は「お前は本当に女か?  証拠を見せてみろ」と言った。(そんな事言われても、来ないものは来ないのに…)

ちょっとスカートを履いてみたら、友だちからは「おー、なんや、今日スカートなんやぁー」と、さも珍しいと言わんばかりに大げさに言われ、ちょっと化粧なんかしようものなら「えっ? 今日、お化粧してるん?」と冷やかされてきた。もうスカートなんか履くもんか、化粧なんかするもんかと、ずっと思ってしまったのだった。

それとは逆に「ジーンズ! 似合うなぁ」と言われてみたり、ギターを弾いていると「めっちゃかっこいい!」と言われ、自分はこういう事が「らしい」んだと、思うようになっていった。

英語の発音なんかもそうだ。ちょっと英語っぽく言うとすぐに茶化される。だからわざと「マイネーム イズ のりこ!」とか、言ってみる。大人になってゴスペルを歌うようになっても「私、英語が苦手なんです〜」と言っては、開き直る・・・。

しかし歌の先生は、
「苦手苦手って言ってたら、それで終わり! 私は英語で歌えるのよ! と、もっと自信もって歌いなさい。それに、実際、なかなか良い発音ですよ、大丈夫!」と言ってくださった。

人間とは不思議なものだ。大げさかもしれないけど、何と言われるかでこんなにも、人生が変わる!

今、三浦綾子さんの「氷点」を読んでいる。主人公の「陽子」は、自分がもらい子だと知ってからも、決してひねくれなかった。彼女はこう言っている。

「両親がいないからだとか、片親だから、継母だからとかって、ひねくれてる人間がザラにいるでしょう? でも、わたしはね。そんなザラにいる人間の仲間入りをしたくないっていう生意気さがあったの。自分が悪くなったのを人のせいにするなんていやだったの。自分が悪くなるのは自分のせいよ。それは環境ということも確かに大事だけれど、根本的に言えば、自分に責任があると思うの。…石狩川の上流がきれいだったわ。下流は工場の廃液で黒く汚れているけれど。あれを見ても陽子は思うのよ。わたしは川じゃない。人間なんだ。たとえ廃液のようなきたないものをかけられたって、わたしはわたし本来の姿を失わないって、そう思ったの。こんなの、やはり素直じゃないわね、おにいさん。」

深く考えさせられた。そして同時に、自分の力でがんばれる間はいい、でもそれも利かなくなるときが、人間にはあるのではないか…。実際「陽子」は、自分の力ではどうにもならない試練がやって来た時に力尽き果て、自殺未遂をする・・・。

結局、私は、誰の声を聞いて生きるのか。人の声か、自分の声か…。
いや、人は、神様の声を聞いて生きるよりほかに、本当の救いは無い! そして神様の声を受け入れた時、本来の自分自身を受け入れる事が出来るようになった。神様は、傲慢に生きて来た私を救い、私に自分らしく生きる力と喜びを与えてくださった! そんな事を改めて思った朝だった。
                                                

2017. 12/19 「母がクリスチャンになりました!」

私の母が、今日(12/7)、イエス様を信じました!

母は、クリスチャンではありませんでした。私がクリスチャンになってから実に44年! その日からずっと祈って来たけど、何度も諦めそうになりました。私 は神様を信じてはいるけど、何でも出来る神様だと思うけど、私の母を救う事だけは出来ないんじゃないかと、何度も思ったものでした。なぜなら、母は・・・
「神様なんていない。私は無神論者や」
「天国も地獄も無い。もし地獄があるなら、行ってやるわ」
「私はクリスチャンでも何でもないから、もう教会には行かない! 関係ない。」

私がCDを作った時も、
「お前のCDなんか、いらんからな。お前の歌は聞き飽きた」

「そろそろ遺言を書いているけど、浜岡家は、みんな来んでええって(出席しなくていいって)書いたからな。仏教の葬式なんか、出たくないやろ」
などなど、・・。
「自殺する人の気がしれん。人間死ぬ気になったら、何でも出来る。」と言っていた母は、42歳の若さで夫が死んだ時も、へこたれる事なく、がんばって来た人だった。神様なんかに頼らんでも、人間、生きて行ける!! と言う生き方をしていた人だったのです。
そんな母が、昨日入院しました。もう、手も足も動かず、心臓がかなり弱っているようです。もう長くないと、母も自覚しているのでしょうか。
今日、病院に行くと、色々な説明を受けたり、診察があったり出入りも激しかったし、兄もいたのに、ふと、同室の人も出て行き、母と二人だけになる時間が出来ました。そしてその時、母に聞きました。
「お母ちゃんは今も、葬式は仏教式でと思ってるん? 知らん人にお経あげてもらうんと、牧師(主人)に教会でしてもらうんと、どっちがええん?  教会であげられたら、教会のみんなも喜ぶで。私ももちろん、そうなれば一番嬉しいで!」と言うと「私も教会でしてもらえるんか?」と言う。「もちろん や! イエス様信じて、天国に行こうや。そしたら何も心配せんでええよ。」「うん」「えっ? 今、うんって言った? ホンマ? ホンマにイエス様信じ る?」「うん」「ホンマかー? ほな、私が先祈るから、ついて祈ってや」「うん」
私「神様」母「神様」
私「イエス様を信じます」母「イエス様を信じます」
私「私の罪をおゆるしください」母「今までのたくさんの罪をゆるしてください」(えっ? 一緒じゃないやん! お母ちゃん、自分のことばで祈った?!!)

そう祈り終わった母は、
「今まで、いらん事いっぱい言うて、ごめん」と言った・・・。私も泣きながら「私こそ、お母ちゃん、ごめん。そしてありがとう。お母ちゃんがいなかった ら、私はクリスチャンになっていなかったよ。4人の子どもたちのめんどうもいっぱい見てくれて、ホンマにありがとう。お母ちゃん。イエスさま信じたなら、病床洗礼と言うのがあるよ。洗礼受けるか?」「うん」

と言う事で、今度行くときは、主人と一緒に、洗礼を授ける用意をして行く事に。
帰りの車で、娘にメールしたら、「まじで!!!! めっちゃ感謝!!!! はれるや!!!」と返事が来た。それを見た途端、なんか、ぷつっとして、次から次か ら涙が出て来て、もう嗚咽になって、車の運転大丈夫やろかって、なって・・・今までのことがいっぱい思い出されて・・・・もうすっかり暗くなっていたので、運転ホンマにヤバかった・・・・。
帰ってから主人に、詳しく報告したら、なんと主人も「良かった! よかった」と言って泣いた。私は主人が泣いたのを見るのは、これで二回目だ。自分の親が死んだときでさえ、主人は泣かなかった。いや、どこかで泣いたのか もしれないけど、人前では決して泣かなかった。私が見た事があるのは、私たちの第一子が流産した時。そして、今日だ。主人は、私の母が信じた事を、泣いて喜んでくれた。それほど、母は、きっと信じないだろうと思うような、本当にかたくなな人だったのだ。

その後すぐにゴスペル教室があった。泣くまいと我慢していたけど、愛する仲間たちの歌う声に、そして、一緒にずっと祈ってくれた仲間たちを思い出され、と うとう我慢できなくなり、涙が止めどもなく出た。神様に出来ない事は無い! 必ず約束された事を成し遂げられる! 約束のものを得るのに、私たちに必要な のは、「忍耐」!!
試練に合う時、私たちは低くされる。そして、神様の深いご計画を知る日が来る。祈られているたましいに、神様は必ずみわざをなされる! アーメン

あなたも、誰かに祈られている!
何より、イエス様が、あなたのためにとりなし、祈って下さっている。聖霊様が、深いうめきを持って、祈って下さっている。あなたが祝福されないはずは無い! どうぞ心を素直にして、「イエス様!」と、一言祈ってほしい。私は生ける限りこの方を伝え続ける! 

最後まで読んで下さって、ありがとうございます。神様の御声が、このクリスマスの時期、あなたの心にも響きますように。
最後に、母のために祈ってくださった皆様! 本当に本当に、ありがとうございます。これからもどうぞ、よろしくお願い致します。イエス様、ありがとうございます!! ハレルヤ!!!
                                                


2017. 3 / 9 「イエス様より愛された私」

一年半以上もこのページを更新していませんでした。本当にすみません。でも日々、神様の恵みは私に注がれていて、今日まで生きています。

私たちの教会では今年度、「三浦綾子読書会」を始める事になりました。その第一回目で来てくださったH先生のお話に、大変感動し、涙しましたので分かち合いたいと思います。

ある時、中学生だったH少年は、大好きだった担任の先生との交換ノートにこう書きました。

「第三次世界大戦が起こったとして、地球上が火の海となったけれども、先生はヘリコプターで助かったとします。ふと下を見ると、まだ燃えていない所があって、そこに先生の息子さんが助けを求めていました。そしてちょっと離れた所に、僕もいました。あと一人しかヘリコプターには乗れません。先生はどちらを助けますか?」と。
(えらい質問をする生徒やなぁ、先生もさぞ困られたでしょう・^^;)

H少年は99%、先生は「息子を助ける」と言うに決まっている、とは思っていました。そしてしばらくしてノートが返ってきました。そこには赤ペンで「私も人間です。そのような事になれば、息子を助けると思います」と書かれてあったというのです。H少年は「そりゃあそうだろう。もっともだ。やっぱりな。」とは思ったのですが、「でも! もしかしたら、お前を助ける! と言ってくれるかもしれない」と、心のどこかで期待していたのでしょう。やはりショックだったそうなのです。

その時から「息子よりもお前が大事だ!」と言ってくれる存在はないのかと求めていたと言うのです。そして、ついにそのようなお方、神様の愛を知ったのでした!

父なる神様は、ひとり子であるイエス様を身代わりに十字架にかけるほど、H少年を愛された。「神様は、息子よりも僕を選んでくださった。僕を助けるため、ひとり子であるイエス様を犠牲にされた。これこそが、僕の求めていたものだ! それは、神の愛だったのだ!」と。

この話をお友だちにしたら、彼女はこんな事を言ってくれました。
「私はその先生自身が、ヘリコプターから降りて、二人を助ける! と書くんじゃないかと思った。」と! 私は「おぉー、それは思いつかなかった。そうか、その手があったか!」

そしてその事を考えさせられた時、気づかされたのです。
イエス様こそが、まさしくそうされた方だと! イエス様は、ご自分が着いておられた席から立ち、ご自身を身代わりとするため自ら降りられ、その救いの席に私を座らせてくださったのだと!! 

この父なる神様の愛、子なるイエス様の愛があって、私は救われた! 
火の海から拾い上げられた。なんという愛! 何という救い! 

この愛は、あなたにも注がれています。あなたも是非、この方の愛に気づいてください! あなたの為に用意された、この救いのシートに、ただ「ありがとうございます」と言って、お座りになられるだけで良いのです! 心からお祈りしています。


 神は、実に、そのひとり子(イエス様)をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。それは御子(イエス様)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ 3:16 
                                                    

2015. 7/8 「和解 〜後藤健二さんが、いのちをかけて伝えたかった事〜

イスラエル研修旅行の最終日。私たちの一行に飛び込んで来たニュース! それは人質となった後藤さんらの事件だった。

あれから、後藤さんが書かれた「ダイヤモンドより平和がほしい」を読んだ。

西アフリカのシエラレオネという国の中に、手や足を奪われた人々が暮らすキャンプがある。彼らは反政府軍に手足を切り落とされ、多くの人々が死んだ。まだ赤ちゃんだった子も、耳や腕を切り落とされていた。そして、襲ったのはなんと、10才〜16才の少年たちだったという。

後藤さんは、この村を襲った少年たちを捜しあて、話を聞いた。12才の子ども兵士ムリアは、両親を目の前で殺され、反政府軍の兵士に連れて行かれ、戦闘マシーンとして訓練を受け、多くの人を殺すようになったのだった。

この本の写真の少年が、ムリアだ。彼の目の下の三日月のキズ、それはカミソリで切られ、麻薬を埋め込まれた跡だった。麻薬中毒となった少年たちは、とても正気ではいられなくなり、片っ端から人を撃ち殺して行った。

そんな彼らを救ったのは、教会だったと言う。麻薬から解放される為には、大変な日々を過ごす事になる。しかし、もっと苦しいのは、正気になる事によって、自分が何と恐ろしい事をして来たかを、直視しなければならなくなる事だ。麻薬をやめる為には、苦しい現実と向き合わなければならず、そんな事ならいっそ、狂っている方がましだと、また麻薬に走ってしまう事もあるという。

被害者の方の言葉「彼らを赦す。だが忘れない」と。人間は、忘れる事はできない。しかし、神様の赦しは完全。「もう忘れた。二度と思い出さない。」と言ってくださる赦しなのだ。イエス様の流された血潮によって、私たちの罪は、完全に解決されたのです。


キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
エペソ 2:14〜16
                                                    

2015. 1/27 「捨てられた石 」

「捨てられた石」イスラエル レポート (3)
エルサレムでの礼拝メッセージから与えられた恵み
私は、もうすぐ引っ越すので、この年末年始は大大大掃除作戦! 「何でも捨てモード」の、スイッチが入った。「いらん! これもいらん、もう必要ない!!」と言いながら・・・。
引き出しも全部、角から角までチェック。すると中からビニール袋が出て来た。何だろうと見たら、石がいっぱい@@ とてもきれいなカラフルな石。
「あー、これは淡路島の五色浜の石だなー。うーん、キレイやなぁ・・・。でもこの先いるかなー、石ねぇ・・、もういらんな。捨〜てよう!」
五色浜の石

それから2週間後、いよいよイスラエルに行くという前の日。一人の友人からメールが来た。「イスラエルの石をお土産に持って帰って来てください〜」「えっ、石? ふーん、石でええの? わかりましたぁー、了解!」と言う訳で、イスラエルでは、色々な場所で石を拾い、持って帰って来たのだった。
イスラエルの石
「山上の垂訓」とは、イエス様がメッセージをされた山
「クムラン」は、聖書の巻物(死海写本)が見つかった地
「シロアムの池」は盲人が見えるようになった池
「ガリラヤ湖」の貝
正直、イスラエルの石も日本の石も、そんなに変わらない。いやむしろ、私が捨てようと思った五色浜の石のほうが、美しい。でもどんなにきれいでも、いらないモノは捨てられる。しかし、誰かにとっては、どこそこの石は、とても大切なものなのだ。
18日の礼拝は、イエス様が十字架に架かられたエルサレムで捧げられた。言葉にならないひとときだった。そしてその日のメッセージはなんと「石」の話だった!
「主(イエス様)のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。(1ペテロ 2:4-5)」
イエス様は人には捨てられた石・・・。人々は、イエス様を捨てた。「あなたなんか、いらない。もう私には必要ない!」と。その苦しみは私の為・・・。
そして神の目には選ばれた、尊い、生ける石だったはずのイエス様は、十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれる事になった。それも、私の為だった・・・。
イエス様は、人々から捨てられ、弟子たちにも裏切られ、そして神様からも見捨てられた。すべては、こんな私を救うため。命がけで愛してくださり、最後まで十字架を全うされた。「捨てられた石」そのイエス様の深い愛をエルサレムの地で実感した。
神様は私を「もうお前なんか、いらない。もう必要ない」と言って、捨ててしまわれない。それは私が、美しいからとか、役に立つから、ではない。捨てられて当然の汚れきった私を、役に立つどころか神様のお邪魔をしているようなこの私を、かけがえのないものとして、拾いあげてくださったのだ。なぜか。それは、私がイエス様のいのちという代価を払って買い取られたからなのだ。
神様は「お前は高かったんだよ。わたしのひとり子(イエス様)のいのちと引き換えに、手に入れたんだからね。捨てる訳がないよ。おまえは、何にもかえられない尊い存在なのだから」と言ってくださったのです。ハレルヤ!

「からし種」は、小さな種。
しかし、成長し空の鳥が来て巣を作るまでになる。
「いなご豆」は放蕩息子が、
豚のえさであったいなご豆でもいいから
腹を満たしたいと思うぐらい、
空腹だったとの話に出てくる。
                                                    
2014. 12/16 「何の為に生きるのか? 」

まだ20歳ぐらいの時、兄が私に尋ねた。

「お前は何の為に生きてるんや。自分の為か、それとも神様の為か、どっちや!!」私は一瞬迷った。もし「神様の為に生きている!」と言えば、きっと兄は「自分の為に生きる人生じゃなければ何の意味もないだろう!!」と怒りだすに違いない。でも私は、今こそハッキリ言う時なのだと思った。「神様、助けてください」そう祈ると、思いきって

「神様の為に生きてる!!」と大声で答えた! 次の瞬間、きっと灰皿が飛んでくるんだろうと、頭を覆ったその時、飛んで来たのは意外な兄の言葉だった。

「そうか…。神様の為に生きているのか…。それなら俺は、お前がうらやましい。もしお前が、(自分の為に生きている)と答えたら、お前がやっている事は間違っている!! と説教しようと思ってたんや。でも、(神様の為に生きている!)と、ハッキリ答えれて、その通りに生きているお前は、すごいと思うぞ。それにしてもまだこんなに若いのに、なんでそう言いきれんねん。俺も今(この為なら死んでもいい!)と思えるものを探している。でもまだ、それが何かはわからへん。俺のまわりにもお前のようなヤツはおらん。お前は、この為になら死んでもいいと言えるものを、見つけたんやな…。それにしても、それが神様と言うのが、わしにはどうもわからんがな…」と言った。

あれから30年以上経った。人生の「なぜ?」「どうして?」「何の為に?」は、増える一方だ。しかしそれでも確信している。神様は決して間違った事はなさらない。すべてに意味がある。そしてすべての謎を解くカギは、神様にある。すべてが完全にわかる時がくるのです。

 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 (第一コリント 13:12)

                                                    
2014. 9 /18 「たとえ歌えなくても」

小さい頃から歌が好きだった。近所の人が夕涼みしている中、よく(エアーマイク?)で、流行歌を歌っていた。
中学生の時、教会に導かれ、宣教師の娘さんとデュオをするようになった。そこから私のゴスペルシンガーの道が開かれて行った。

20才の時、ミクタムレコードから出た「いのちのパン」のレコーディングに参加させて頂いた。その時は、気づかなかったのだが、へたくそな発声で一週間、無理して大きな声で歌ったのが原因で「声帯ポリーブと脂肪腫」というのが出来てしまったようだ。

5年経ってやっと喉の異変に気づき、手術となった。手術は成功したが21日間「しゃべるな」と言われ、入院していた。何もする事がないのでずっと聖書を読み、祈る生活。そんな中、神様からこんな語りかけを聞いた。

「このまま声が出ず、歌えなくなっても、あなたはわたしを愛するか?」
「ギターが弾けなくなっても、従うか?」と。

私はその頃「神様の愛をギターを弾きながら歌って行きたい! 音楽を通して神様を伝えたい! 」と思っていた。

しかしこの神様の声を聞いた時、
「この声をくださった神様は、歌えなくする事もお出来になる方だ! ギターと出会わせてくださり弾けるように導いてくださった神様は、指を動かなくする事もお出来になる方なのだ! この声も指も、神様がくださったもの。もしこのまま歌えなくなっても、私は神様に従う事ができるのか?」

そして、私は気がつかされたのです。自分は神様のためと言いながら、実は大好きな歌を続けたいだけ。手術が成功して良かった。これでまた、音楽を続けていける! と思っている本音を。

しかし神様がほしいのは私の歌じゃなくて、どんな時にも従う心だったのです。「たとえ歌えなくても、あなたを賛美します!」というその告白を主は待っておられたのだと。

その後、音楽の道は閉ざされ、牧師と結婚して牧師夫人となった。4人の子どもも与えられ、奮闘する毎日。しかしなんと26年経ち、不思議な出会いと導きでCDが完成し、再びギターを抱えて歌う日々が来た。それからの3年間、自分の知らない行った事のない所でも神様を伝える機会が与えられ、こんな歳になってからこのような導きがあるとは、全く想像していなかった。

神様にすべてをささげた時、神様は、私の計画ではなく神様のご計画成し遂げてくださる方だと知りました。いのち果てるまで、ハレルヤと歌い続けよう♪

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みは(とこしえにあります。(詩篇 138:8)
                                                    
2014. 7 / 6 「クリスチャンの祖母」

私がクリスチャンになれた背後には、祖母の祈りがあります。
小さい時から、祖母は私を教会に連れて行ってくれました。

「典子、祈れなくなっても、聖書が読めなくなっても、教会だけは休んだらいかん。重い足を引きずるような時でも、教会だけは行きなさい。そうすれば必ず、いつか道は開けるから!」それが口癖でした。

そして私が中3の時、父が交通事故で死にました。その時も祖母は、自分の息子を跳ねた加害者に「あなたも大変な事になってしまったね。あなたを救うのは、イエス様しかおられない。イエス様を信じなさい」と言って、伝道したのです。その時の私は、祖母の思いが全くわかりませんでした。(自分の息子を殺した人になぜ? どうして赦せるの? 何、かんがえてるの! 信じられない!) と思っていました。しかし今は、祖母の中にイエス様を見るような気がします。

私が牧師と結婚する事になった時も、祖母が一番喜んでくれました。披露宴では、予定に無かったのに、是非賛美がしたいと言って、賛美歌を歌ってくれました。

それから数年でしたが、私たちが牧会している近江教会で一緒に礼拝をささげる事も出来ました。自慢の祖母は、負けず嫌いで、とってもお茶目で、信仰深く、何事にも一生懸命な人でした。礼拝後に突然、みんなの前で、暗記した聖書の2ページほどの言葉を、スラスラと言い出してしまう、何ともお騒がせな、尊敬すべき祖母でした^^

ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。(ルカ 6:35 )
                                                    

2014. 5 / 1 「何によって憶えられたいか」
         ( 1 / 6 「え・ら・ば・れ・た」の続き)

ドラッガーという人がその著書の中で書いています。

「私が13歳のとき、宗教の先生が、何によって憶えられたいかねと聞いた。誰も答えられなかった。すると、今答えられると思って聞いたわけではない。でも50になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよといった」
       (ドラッカー名著集『非営利組織の経営』)

50を過ぎている私は答えられなければならない。私は何と憶えられたいだろう? 神様は私を選ばれた。そうだ! 1月6日の所でも書いたように、(神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ 1:4〜5) ) とあるように、私は「神様の子」として、あらかじめ定められていたのだった。それなら私のこの人生の問いの答えは

「典子はまことに神の子であった」という生き方だ。イエス様が十字架で死なれた時、そばにいた百人隊長が言った「この方はまことに神の子であった」(マタイ37:54)と。

イエス様のように生きれたら、何と幸いでしょうか。あまりにも罪深い私だけど、この問いかけを常に前に置いていこう。

そしてもっと言うなら、人に何と評価されるかよりも、神様に何と評価される者になるのか、それこそが何よりも大切な、私の生きる理由になるべきだと思わされている。

                     
2014. 4/ 9
 「しあわせのルール」

16才の時、原付で二人乗りをして捕まった。
警官「免許証、見せなさい」私「はい…」(免許書を見せる)
警官「んっ? なんや、女の子やったんか」私「はぁ… (ほっといて、どーせ私は男みたいですよ)」
警官「二人乗りしたらあかんの、知ってるよな」「はい…」
警官「違反やからな、キップ切るで!」「はい…」
警官「ええなー、切るでぇ」「はい…(ってゆーてるやん、しつこいなぁ〜)」
警官「う〜ん、深く反省しているようやから、今回は赦したるわ」(えっ、マジで^^;)

なんて事もありましたが、普通、ルールを破ったら罰則があるのは当たり前。赦して頂きながら、こんな事言うのもなんなんですが、赦したらあかんよ、イタイ目に合わなければ、違反し続けるでしょ。違反し続ければ、どうなる? 死ぬよ! って事ですよ。
交通ルールは何のためにあるのか? 命を守るためです。

神様のルールも同じです。守らなければ死んでしまうよ! という事です。
では神様のルールって何でしょう。それは「愛」です。

聖書の中に一番大切な戒めはこれですと書いてあります。それは、

第1には『 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
第2には『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
この二つより大事な命令は、ほかにありません。  (マルコ 12:30〜31)

「神を愛し・自分を愛し・隣人を愛する」これが「しあわせのルール」。「永遠のいのちへの道」なのです。
しかし、神様を愛さず、自分勝手に生きているなら、そして神様を無視し続けるなら、「死んでしまうよ! 永遠の滅びなんだよ!」と言っておられるのです。

あなたは、今まで神様を愛して生きて来たでしょうか? 自分を受け入れられるでしょうか。家族を、隣人をゆるせるでしょうか? 今日から神様と向き合ってみませんか? 自分と向き合い隣人と向き合って見ませんか。「愛する事やゆるす事」自分の力では出来ません。しかし神様にはできます! 悔い改めて信じるだけです。ちょっと静まって考えてみませんか。これが「永遠のしあわせのルール」だと聖書は言っています。
                    
2014. 1/ 6「え・ら・ば・れ・た」


2014年になりました、今年もどうぞよろしくお願い致します。
さて早速ですが、本日(日曜日)、4回も同じ聖書のことばが開かれました。朝の「JJ(中高生会)」で、第一礼拝と第二礼拝で二回分、夕食前にいつも読んでいる「デイリーブレッド(聖書の解説書)」の中でも、全く同じ言葉が・・・。それが以下です。 

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ 1:4〜5)

私たちは、世界が造られる前から選ばれていた、そして、それは聖くしてくださるため!
はじめから愛をもってあらかじめ定めておられたなんて! 何というめぐみ!

まさしく「え・ら・ば・れ・た! 神様〜! 感謝永遠にー」
                         
2013.12/19 「笑顔?」

「浜岡さんは、笑顔が素敵だね」「いつも笑っているよね」「どうしたらそんな風に笑顔でいれるの?」とよく言われます。でも私は思うのです。「笑顔は作れる」と・・・

私は小さい頃からいつも、周りの目を気にして生きてきました。人が私の事をどう思うかと恐れて生きていたのです。それはきっと、とても怖かった父に、小さい頃から毎日2時間ほど正座させられ、怒鳴られて育ったからなのでしょうか。私は、いつしかの代わりに笑顔を作るようになりました。心は泣いているのに、顔では笑ってごまかして来たのです。本当はとても怖い! 「違う! 」と叫びたい。でも、良い子を装い、逆らわないように、受け入れてもらうためにヘラヘラと笑うように・・・、そうして私は、いつも笑顔の子となったです。

ある時、友だちが悲しい話をしているのに、自分が笑顔で聞いている事に気づきました。それからは、辛い話は辛い顔で聞けるように、泣いている人とは一緒に泣けるようにと努力してみたりもしました。

でも、私はイエスさまと出会ってから全く変えられました! 努力やがんばりでの「笑顔」「作り顔」じゃなく、心からわき上がってくる「喜び」を頂いたのです! それは、今まではなかった平安のともなう「喜び」と「感謝」でした。その「喜び」とは、悲しみの中にあっても、どんな境遇にあっても与えられるというものでした。

聖書の中には「笑顔」という言葉は出てきません。神様が私たちに与えてくださるものは、「笑顔」ではなく「喜び」なのです! 聖書には、なんと多くの「喜び」という言葉が出てくる事でしょうか。神様を信じる者に与えられるのは、どんな苦しみの中でも与えられる「イエス様の喜び」なのです。それは一生懸命作らなければならないものではありません。喜び感謝楽しみがあふれてくる! それがクリスチャンの特権なのです。

私は人を恐れて生きる者から、
神様を恐れて生きる者へと変えられました。

それは、暗闇からに入れられる経験です。
嘆きと悲しみが、喜びと感謝に変えられる経験なのです。

主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。 
わたし(神様)、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。(イザヤ 51:11 〜12)

                      
2013.11/29 「自慢」


苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇 119:71)

私は色々な所で、お話させて頂いています。弱さ失敗もさらけ出して話します。それは、こんな私をもなお見捨てず愛してくださった神様の深い愛を、どうしてもお話ししたいからなのです。

ある時、母校でお話しさせて頂いた事がありました。終わってからある学生に「クリスチャンの人はなぜいつも、試練を自慢げに話すのですか」と言われ、私はそんなつもりは全くなかったけど自慢に聞こえたなら、これから言い方も気をつけなくちゃと思いました。でもよく考えたら「いや、そうか! もしかしたら自慢かも!」と思うようになりました。

というのは、試練があるという事は、神様が私を信頼しておられる証拠だと思ったからです。長男を出産した時の話です。丸二日も激しい陣痛があり、本当に死にそうでした。その時、

お医者様「ようがんばったね。もう一日、こんな状態が続くようなら、切ろうと(帝王切開)思ってたけどね」
私「えー、先生、そんな手があったんなら、さっさと切ってくださいよ〜。もうあかんーって、何回思ったか! 死にそうでしたよー」
先生「他の人やったらとっくの前に切ってたけどな。浜岡さんやから切らんかった。」
私「え〜、なんでー?」
先生「浜岡さんは体力ありそうやったからねぇ」
私「そんなぁ〜^^;」

でもこのやり取りで思いました。神様も「あなたなら、まだ大丈夫だよね」そう言って見守っておられるのだと。いつでも助ける用意をしながら、見つめておられるのだと。「あなただから」と、信頼してくださっているのだと。

ダビデは言いました「苦しみに会った事は、私にとってしあわせでした。」苦しみによって真理を知り、神様の深い愛を知り、どんな状況でも感謝と喜びにあふれる方法を見いだしたから! ハレルヤ!
                      
2013.11/22       「引き裂かれた翼」


もしその人の主へのささげ物が、鳥の全焼のいけにえであるなら、(途中・略)その翼を引き裂きなさい。それを切り離してはならない。そして、祭司はそれを祭壇の上、火の上にあるたきぎの上で焼いて煙にしなさい。これは全焼のいけにえであり、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。 (レビ記 1:14)

何と、恐ろしい事が書いてあるなぁと思います。旧約聖書を読むと、いけにえとか、血を注ぐとか、火で焼いて煙にするとか。かなりおどろおどろしい事が書いてあります。気持ち悪いから、読むのをやめようか? いや。これは大切な真理。私の罪とは、これほど汚れきっていて、救いがたく、何を持ってしても赦されるものではないのです。目を背けちゃダメだ、神様を無視して生き続けているなら、私は死ななければならない。だから、ゆるされるために、身代わりとなり、命がけで救ってくれる方が必要だったのです。それが、いけにえ。それは「牛」だったり「羊」だったりしました。これらの家畜は、血を流し、焼かれました。そして、そのささげものが「鳥」の場合は、その翼を引き裂きなさいと書いてあるのです。切り離してはならない!  引き裂きなさい!?  なんとむごい!

しかし、深く教えられました。私のために、このむごい事を耐えてくださったのが、イエスさまだったと。私の身代わりに十字架にかかってくださった。十字架の上で、イエスさまは血を流され、手足は釘打たれてその肉が引き裂かれたのです!! そのおかげで、私の罪は完全に赦されたのだと。そして、この時からもういけにえは必要ではなくなりました。イエスさまの十字架の身代わりの死が、完全だったからです。

そして、イエスさまは死んでくださっただけではなく、三日目によみがえられました!! 今も一緒にいて、私とともに生きてくださる!! なんという恵みでしょうか!  ハレルヤ
                       
 2013. 8/16  「三本のトウモロコシ」
            (ホームで紹介しましたが、残したいのでこちらにも書きました)

トウモロコシを3本買って来た。外見はみんな同じだったのに、皮を剥げば、あら! びっくり! みんな全然違うじゃありませんか!!

どこまでもまっすぐなの
途中から曲がったもの
あれまー、みごとに外れまくっているもの・・・

でも同じ98円だった

あなたの中身は、どんなだろ?
味もきっと、みんな違うんだろうな・・・

あなたがどんな中身でも、神様にとっては、かけがえのない存在! 

「あなた(典子)はわたしの目には、高価で尊い
 わたしはあなた(典子)を愛している」(聖書 イザヤ43:4)

と、神様は言われました。

そして、98円どころではない、神様は、私を(あなたを)「キリストのいのち」と言う代価を払って買い取ってくださった。

ゴミ箱行きの、罪深く価値がないと思われた私のため、イエスさまのいのちを犠牲にして、罪の泥沼から拾い上げてくださったのだ・・・。

そして、「お前(典子)はわたしが造った、かけがえのない存在。他の人がどう思おうと、そんなの関係ないさ。みんながどう思うかなんて、たいしたことじゃ ないんだ、(典子)。大切なことは、このわたしがどう思っているかって事だ。そしてわたしは、お前(典子)のことを、とても大切だと思っている。忘れちゃ いけないよ。この手で造ったから、大切なんだってことを。それから、わたしは失敗なんてしていないってこともね」
(絵本「たいせつなきみ」より)

あなたも、(典子) の所に自分の名前を置いて読んでみてください。
God Bless You



皮を剥いだ順番も、1.真ん中、2.左、3.右の順だったので
ホントに、びっくりした
それでは、試食、結果発表!! 

不揃いちゃんが一番おいしかったよ! ホント、ひいき目なしに。粒も大きいし、味わいがあった。波瀾万丈な人生、もしくは自由奔放な人生(とも言えるかな)は、いい味、出すのかな。。

途中から曲がっているのは、なかなか皮が硬かったなぁ。途中の試練で、鍛えられ、強くなったのかな。


どこまでもまっすぐなこは、隙間なくどこまでも規則正しく、これってある意味、やっぱりすごいな。はみ出したことがないって、自分の力では、とても出来ないよね。

そんな訳で、どれもみんな、神様の作品なんだなーと思いながら食べたのでした!

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 2013. 7/13  「あなたが、疲れているなら」

(イエス キリストのことば)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28〜30)

ここ10日ほどの間に続けてお二人の方が、うちのすぐ近くの駅で飛び込み自殺されました。地域の人々や先生方、子どもたちと話す中でみんな、本当に疲れているなぁ! と思わされます。どうすれば良いのかわからないと、頭を抱えておられるのです。 

イエス様は言っておられます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と。「わたしが休ませてあげる」と。

私たちの人生の重荷を全部降ろし、無くしてしまおうというのではありません。イエス様が、重荷をいっしょに負ってくださる。そしてその中で、わたしから学びなさいと言われるのです。

私たちの試練や困難は、無くならないかもしれません。しかし、その中で必ずイエス様は、たましいに安らぎが来る、そんな助けを与えると言っておられるのです。この方と一緒に歩みだしませんか。あなたの重荷は、あなたを押しつぶすものではなくなり、たましいに真の平安を与えるものと変えられます。


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 2013 6 / 9 「今でしょ!」

神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(2コリント 6:2 )

「いつ、神様を信じるの?」「今でしょ♪」
今が、恵みの時、救いの日です。どのような状況でも、必ず救い出してくださるのは、神様以外にありません。「今」人生を考え直しませんか?

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2013年の目標みことば
すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。1ペテロ 2:17 

「神様! 増々あなたを愛し、隣人を愛することができますように。すべての人を敬えますように。日本や世界の動きに鈍感な者でしたが、今年は特に上に立てられた人々を尊び、祈って行けますように。」


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